塾員インタビュー # 24 [10/06/10]

塾員社長特集!㈱Adat.代表取締役社長 福澤英弘氏

fukuzawa_シャープ今回は人材育成・研修のプラットフォームAdatの社長の福澤英弘氏にインタビューを敢行した。氏は富士銀行にてキャリアをスタートし、慶應ビジネススクール(KBS)でMBAを取得後にCDIというコンサルティングファームに参画されている。その後、グロービスの設立に携わり、20 07年にAdatを立ち上げている。様々なキャリアを経験し、多種多様な企業を見てきた氏の話には、たくさんのインプリケーションがあり、読者の皆さんには余すことなく吸収していただくことを望む。

【福澤英弘氏】

1963年10月24日生まれ。上智大学経済学部卒業後、㈱富士銀行に勤務。その後、慶應義塾大学大学院経営管理研究科修了、㈱コーポレートディレクションを経て㈱グロービスの設立に参加。創業時から一貫して企業研修部門の責任者を務める。2007年4月㈱Adat.を設立、代表取締役に就任。

【㈱Adat.】

2007年設立。プロフェッショナル講師の発掘・育成、コンテンツ開発・発信支援のネットワーク構築の支援を行なうとともに、Adat.commonsの運営を通じて、従来にはなかったマネジメント研修の企画・運営を支援する。また人材・組織開発に関するコンサルテーションも行う。

―本日は取材に応じてくださり、ありがとうございます。

まずは上智大学の経済学部に在籍されていた際のことをお聞かせください。

まずなぜ経済学部かと申し上げますと、正直深くは考えていませんでした(笑)。むしろ中学時代は考古学に興味がありました。地元に古墳があって、探索したりしていましたね。ビジネスに興味を持つようになったのは高校からです。あるときクラスで、自分の宝くじを発行したのです。その名も「福澤宝くじ」(笑)。それでお小遣いを稼ごうとしたのですが、やっぱりみんな頭がよくて期待値を計算するんですよ。結局、期待値計算すると私が儲かることがばれちゃって、集めたお金は全額賞金で戻すことになってしまいました。何のことはない、ただ働きです。(笑)。ちょっとしたお遊びだったんですが、今考えてみたらこれもビジネスに興味が向くきっかけだったんじゃないでしょうか。

―大学時代はどのような活動を行なっていましたか?

サークルはテニスサークルとソフィア祭実行委員に所属していました。テニスサーク ルでは代表だったので、その時に組織をつくる難しさと面白さを感じました。ソフィア祭実行委員では、私は映画が好きだったこともあり映画祭の企画を運営していました。

―学部ではどのようなゼミに所属していましたか?

国際金融のゼミに所属していました。ゼミの雰囲気などを考えて、なんとなく入ったのですが、そこでの勉強はしっかりしましたね。

―就職活動では、どのような企業・業界をまわられたのですか?

国際金融のゼミに所属していたこともあって、銀行などの金融関係が多かったですね。金融以外でしたら不動産会社にも行きました。

■銀行を辞めるのはどちらかと言えば私は遅かった方。

―富士銀行にご入行された経緯についてお教えください。

そうですね。ここでも深い理由はなく、ゼミの先輩の後を追ったという感じです。自分の周りも銀行、商社、メーカーに行った人が多かったですね。

―余談かもしれませんが、現在は銀行の数も限られていますが、就職活動を経験しても各メガバンクの差異があまりないように感じました。昔は各行で違いが顕著にあったものなんでしょうか。

Adatを立ち上げる前に私は㈱グロービスに勤めていたのですが、その際に銀行の研修の仕事を数多く経験しました。富士銀行にいた時はあまり分からなかったのですが、大手の銀行をほとんど担当した時には各行の違いに驚きました。やはり人は企業の色に染まるのだと思いました。だからこそ、いわば文化的に違う銀行同士が統合して今のメガバンク3行が誕生したのにはびっくりしましたね。当時のイメージとしては、例をあげるならば三菱銀行は紳士的で、業務を全うにこなす。住友銀行は軍隊的で、勤務の年数によって会議の役割が決まっているように感じました。私が勤めていた富士銀行はその中間ですね。ここにあげたものをあえて言うならばですけど

―富士銀行には何年くらいに入られたのですか?

1986年です。85年に円高不況があったので景気が悪かった年ですね。そのなかでも富士銀行は都銀の中で一番利益を上げていました。その1,2年後にバブルになったわけです。不況からバブルへの逆転は驚きましたが、今となっては非常に良い経験です。2年間勤め、支店でいろいろな業務を行いました。

―2年で富士銀行を辞められた理由をお聞かせください。

正直、私は遅いほうだったと思います。その時点でも、同期はかなり辞めていましたから。(笑)でも、今でも同期は仲いいですよ。最近は毎年同期会をやっていて、私も参加しています。当時円高不況の影響で銀行の舵取りにも変化が出てきました。今まで通りの業務だけを行なっていていいのかと。そこで銀行の人事部は今までと違う人材を発掘するために、従来と異なる採用基準を新卒採用に設けたわけです。そして銀行を変えるという意欲を持った私を含む若者たちが集まったんですが、結局のところ現場は変化に対応できず、従来通りの支店業務が行なわれていたんですよね。今考えれば、当たり前です。でも当時は、当然のように違和感を感じました。「こんなことがやりたかったんではない」と。銀行の業務はいわば「左にあるものをしっかりとずれないように右へ動かすこと」。リスクを徹底的に回避することが求められる環境に、新しいことを考えたい若者は嫌気が差したのだと思います。バブル期に入ってからの競争主義というのも一因だと思います。そんな感じで「何のために仕事しているのか?」とみんな考え直したのではないでしょうか。私自身は企業がどんなに元気でも、その中で働いている個人が元気でなければ働く意味はないじゃないかと思いました。そして漠然と日本の企業を変えたいと思うようになり、勉強するために慶應ビジネススクール(以下KBS)に通うことにしました。そのとき不思議にも、海外のビジネススクールという選択肢は考 えられませんでした。1,2年間英語を勉強して海外に行くことも実質可能だったのですが、時間がもったいないと感じたんでしょうか。KBSの試験を受けるのも大変でしたよ、当時の銀行なんてよほどのことがない限り休めませんから。仮病の長期計画を立てて、試験を受けに行きました(笑)。

―実際に富士銀行を辞めるとなると大変だったのではないですか?

そうですね。いくら若くても辞めるとなると半年間の準備期間は必要ですし、支店長は引き止めにかかるわけですから。でも最終的には周りの上司や先輩たちから応援されました。当時の私の上司くらいの年齢になれば守るものを持つようになりますから、私のように冒険できるのが羨ましかったのかもしれません。当時銀行は安泰のイメージがあったので、家族を含め自分の周囲はそれなりに驚いていましたよ。

■日本の企業をどうにかしたい

―KBSはどのような環境だったのですか?

人数は、40人弱のクラスが2クラスあった程度です。当時日本の企業を辞めてビジネススクールに行く人は稀でした。今では逆転していますが、6~7割は企業派遣の人でした。自分が自費で通っているのに対して、企業派遣の人は会社のお金で通っているわけですから、なんとなく不公平だなぁとは思いましたが、すぐ慣れました。(笑)。

―KBSでの2年間を振り返るとどうですか?

大変でしたね。銀行を辞めて入ったわけですから、有意義な時間にしたかった。いろいろなことを凝縮した2年間にしたかったわけですね。それこそ、ちゃんと勉強しようと決意したら、バイトをする時間さえ無くなりましたよ。KBSは基本的にケースメソッドです。1ケースにつき約2時間で、1年生の頃は1日2ケースだったので、9時から14時くらいまで。そのため学校には拘束されないのですが、次のケースの予習が大変でした。ケースメソッドは講義の形式ではないので、理論の理解は自主学習です。ケースを読み込んで自分なりの回答を用意して授業に臨みます。その上で、授業では全体ディスカッションをするわけです。まぁ、人によって予習にかける時間はまちまちですが…。全ケース出席していたとしても、80人中5人は落第即退学していたので厳しかったことは間違いありません。2年生の時には、6月から12月くらいまでインターナショナルプログラムでストックホルムに行ってきました。そのため修士論文は6月までに、ある程度やっておかなければなりませんし、1年生の時よりも格段に忙しくなりましたね。

※1 ケースメソッド…実際の事例研究を主体とした教育方法のこと。

―ストックホルムではどのような経験をしましたか?

まず驚いたのが、向こうでparent student、いわば学生のお世話係が任命されるのですけど、男性には女性、女性には男性が付きます。私にはもちろん女性が付きました。それは変わったことではないと思われますが、1ヶ月間その人と同居するんですよ。ストックホルムの生活に早く慣れるためらしいです。それは日本ではありえませんね(笑)。カルチャーショックを受けました。あと、サウナに水着で入ることにもショックを受けましたね。私一人裸でしたから(笑)。授業はもちろん有意義でした。インターナショナルプログラムという名だけあって様々な国の人が参加するのですが、そこでグローバルビジネスを勉強しました。地元スウェーデンの人はもちろん、アメリカ、イタリア、スイス、イギリス、フランス、ドイツの学生もいました。KBSからはその年は例年より多く4人行きました。1990年頃なので、ちょうどベルリンの壁が崩壊したときですね。ソ連旅行というのもあって、ソ連のビジネススクール(共産党幹部養成学校)でディスカッションしたのですが、その相手の日本語がペラペラだったのにも驚かされました。日本に行ったこともないらしいのですが。だけど本質的な議論はできなかった気がしますね。お互いのインフラも異なっていますし…ただ貴重な経験だったのには変わりありません。日本のKBSに通っていても海外でも勉強したい気持ちは持っていたので、インターナショナルプログラムは本当に良い経験になりました。言葉の問題が付いてまわって大変でしたけど、なんとかなりました。日本に帰ってからは修士論文を書き終え、就職活動をしました。

―その就職活動で㈱コーポレートディレクション(以下CDI)に就職したのですね。どうしてCDIに入ろうと思ったのですか?

先ほど述べたように、日本の企業をどうにかしたいということが根底にあったのでfukuzawaコンサルティングをしたいと考えていました。KBSで勉強もしたわけですし、コンサルティングで戦略を考えたくなったのです。そこで、ゼミの先生の紹介もあってCDIに入りました。聞くところによると、外資系とはまた違って楽しそうだと思ったことが決め手でした

―CDIは1987年に設立されたと思いますが、90年というのはまだ創立したてですよね。

そうですね。BCGからスピンオフして間もない頃で20人くらいの少人数でした。たまたまその内の一人は、私の中学時代の同級生でした(笑)。清水というのですけど、確か今年からKBSの教授になったはずです。CDIにいた3年間は、周りが優秀な人ばかりで勉強になることばかりでした。案件としては、食品会社の外食市場進出における戦略立案や病院経営の建て直し、精密機械メーカーの経営改善とかですね。

―では、コンサルティングの一環として戦略を立てていたのですね。

いかにうまく戦略をプランニングして提案していくか、というのがコンサルティングの付加価値であり、そこからコンサルティングは始まっています。戦略系コンサルタントは、社長ないし経営企画部等の決断の後押しというのが大事な役目です。コンサルタントを通せば良い意味で客観的になりますし、アリバイ作りにもなるのです。戦略系コンサルの中でも、比較的CDIは、戦略の実行レベルも重視していました。私も、何社かは実行段階のサポートまでもやりました。

―3年でCDIを辞めた理由をお聞かせください。

CDIもやはりコンサルティング会社ですから、やはり戦略提言が中心です。どんなに素晴らしい戦略を描いても、実行できなければ所詮絵に描いた餅です。プロジェクトを進める中で、それを強く感じました。やはり戦略を組織や個人に落し込み、さらに個人の能力を引き伸ばすことまでしないと企業が良くならないと感じたのです。たまたまそのようなことを考えている際にグロービスの立ち上げを知って、一つのソリューションになるのではないかと考えてジョインしました。それが1993年のことです。

■一番したい事ができなくなったからやめました

―29歳にして3企業目ですよね。その歳で3企業目というのは多いものですか?

銀行を辞めた人間は、他のコンサルティング会社ですとか外資系の銀行に行ったりとか。そんなに珍しくはないことだと思います。「グロービス」っていうとビジネススクールのイメージが強いと思いますがB to Cのスクールには興味がなくて、企業を根本から変えていきたいという気持ちからB to Bの企業研修を担当しました。はじめの仕事は管理職用のNTTの企業研修プログラム作成で、参考になるようなものがなかったので2週間かけてMBAの素養を築くようなプログラムを自分たちで作りました。あとで本にもしたんですが、それが『MBAマネジメントブック』です。普通でしたら研修プログラムの開発受託として著作権を含めた全てを売切りの形をとるんですが、作ったものを他の会社でも使えるようにNTTと粘り強く交渉してプログラムの使用料徴収という形で認めてもらったんです。

研修部門では責任者でしたので自分の考えの下でやりたいようにやりましたね。たとえば当初研修部門はグロービスの中でコーポレートトレーニングサービスと呼ばれていたんですが、トレーニングといえば新人研修やマナー研修などを指すことが多かったのです。自分がやりたいのはそういうものではなくて「会社を良くすること」でしたので、部門名を「オーガニゼーション・ラーニング」に変えました。組織学習ですね。簡単にいえば組織が学習して、進化していくこと。部門名を目指す方向性のものに変え、実際の事業内容もそれに沿うように意識しました。

―グロービスで14年間で働いたにもかかわらず、なぜやめたんですか?

一番大きいのは、私がやりたいのは「研修」ではなく「会社を良く変えていくこと」で、それがだんだんしづらくなっていったことにあります。今ではグロービスは経営大学院になっていて、当時もだんだんと大きくなりそちらに重点をシフトしつつありました。経営大学院では毎年度一定の質を保ったサービスを提供するためにフォーマット化されますし、そこに文科省も絡んで縛りが強くなっていくんですよね。それまでは私達のやりたいようにできたのに対して、公的な存在になることでだんだんそれが難しくなるんです。会社の方針と自分のしたいことが少しずつズレてきました。

当初オーガニゼーション・ラーニング部門では、クライアントのニーズに対してオーダーメイドのプログラムを開発し提供していました。そして、プログラムを実施する際には外部から最適な講師を呼ぶのです。ビジネス的に言うと、様々なクライアントのニーズに応えられるし、固定費を抱えなくて済みます。しかし大学院化するためには講師を教員として、ある程度の人数を抱えなくてはいけなくなります。経営としても安定しますしね。元々私の考えていたモデルは、外にいるプロフェッショナルを言い方は悪いですが活用する。必要な時にお願いして手数料を払う。こちらの方がフレキシブルに新しいことができるんですよ。講師を内部化してしまうと、彼らを使わなくてはいけなくなります。給料も払っていますし遊ばせておくわけにはいかない。だからこそ、クライアントの欲している講師が本当は外部のプロフェッショナルだったとしても、内部の講師を使わなくてはいけないのでニーズに応えられないんですよね。これはビジネスなのでしょうがないことといえばしょうがないことです。

Adatを立ち上げたのは、私がこの矛盾に不満を感じていたためです。今までとは正反対なビジネスモデルを採っています。昔のモデルは企業に研修を提案し、依頼を受けた上で講師をアサインしていたのに対して、Adatでは先に優秀な講師のネットワークを作っておいてサイトで公開しています。クライアントの抱えている問題をコンサルティングし明確化したうえで、その課題を解決するのに最適な講師をクライアントに選んでいただきます。まあ、頼まれればアダットが推薦することもありますが。、そして、講師とクライアントが直接相談しながらプログラムを設計していきます。

クライアントは、研修会社が売りたいものを、つい買ってしまうことがあります。たとえばリーダーシップ研修を依頼してくるクライアントに対してコンサルティングをしてみると抱えている課題の本質は大抵リーダーシップではないんですよね。案外クライアントは自らの真の課題を認識していないこともあるのです。以前から行っていた研修を繰り返し行っていたり、ライバル企業が行っているから研修をしたりとか。非常に非効率なことが大々にしてあります。

2年なんて誤差の範囲内

―これからのビジョンについてお教えください。

現在のAdatの活動を継続し、拡大していこうと考えています。また、企業の人材開発に携わる方々への教育にも力を入れていきます。彼らの能力次第で、会社が良くも悪くもなるのですから。他には、講師以外にも世の中にいる組織に属していないようなインディペンデントな人たちを発掘していき、ネットワークを作っていくことです。世の中にいる優秀な人たちには目利きとなる人が必要ですし、そのような人たちを上手く表に出し、必要としている組織とつなげたいですね。いわゆる「インテリ版吉本興業」みたいな感じです(笑)。

―様々なキャリアを歩まれた福澤さんから若者へメッセージをください。

まず言えることは、非常に難しいことですが物事を長期的な視点で考えたりfukuzawa 、鷹揚に構えたりすることです。私のKBSの2年間というのも、当時は「MBAを取る頃には26歳になっちゃうし、どうするよ」と思ったのですが、今思えば2年なんてどうってことないんですよね。2年なんて、誤差の範囲内です(笑)。常にゆとりを持ち、焦りすぎず生きた方がいいと思います。そうすることでより柔軟な考え方ができると思います。

もう一つは、若くないとできないということもあるということ。歳をとるということはメンタルモデルが固まるということ。メンタルモデルが固まってくるということ自体は決して悪いことではなくて、例えば考え方や意思決定プロセスが固まることによって決断や判断が速くなったりします。しかし一方で、それを破ることが難しくなってきちゃう。どうしてもメンタルモデルを固めよう、守ろうと考えてしまう。そこでメンタルモデルがまだ固まっていないような若者が新しい考え方を投げかけることで、大人たちのメンタルモデ ルを進化させることができる。だからこそこれから世の中に出ていく若者たちは、先輩に対して下手に迎合せずに、大人のメンタルモデルを突き破る役割が自分にはあるんだと自信を持つべきだと思います。ただ、自分を常に客観視することは忘れないでください。がんばってください。

―本日はご貴重な時間をいただきありがとうございました。

取材:川島碧、服部頼和、岡本浩幸