塾員インタビュー # 25 [10/07/10]

A.T. Kearneyパートナー 辻井隆司氏(第一部)

グローバル経営コンサルティングファームのA.T. カーニーのパートナーであり、同社金融プラクティスの代1-1 表である辻井隆司氏に取材を1時間半に渡り敢行。日本IBM、2年間の「プー太郎」生活を経てA.T. カーニーに入社するというユニークな経歴をお持ちの辻井氏。コンサルを志望する学生はもちろんのこと、これから就活を控えている3年生、来年から就職する4年生は必読です。

【辻井隆司氏】

慶應義塾大学経済学部卒業、ミシガン大学ビジネススクールMBA Essentials Program修了。
日本IBM株式会社を経て、A.T. カーニーに入社。
共著に「スモールビジネスファイナンス革命」(プレジデント社、2000年刊)がある。主要メディアや金融専門誌などに執筆多数。

【A.T. カーニー株式会社】
1926年に米国シカゴで創立された世界有数の経営コンサルティング会社。
全世界37カ国54の拠点に約3,000名のグローバルネットワークを擁している。
グローバル1,000社を含むあらゆる主要産業分野の世界最大手企業から各国大手企業を中心顧客とし、戦略からオペレーション、ITにいたるまで一貫した高品質のサービスを提供している。

東京オフィスは溜池山王駅近く、アーク森ビルにある。

■ ニュートラルな立場である学生のメリットは十分に活用していくべき

―経歴について軽く教えてください。

1985年に慶應大学の経済学部を卒業後、1995年迄約10年、日本IBMにて勤務しました。
IBMを退職後の2年間に、世界中を旅行しました。97年よりA.T. カーニーに入社し、今に至ります。A.T. カーニーでは米国ミシガン大学のエッセンシャルプログラムというA.T. カーニーとミシガン大学が共同で開発した、コンサルタント経験者用のMBAの科目を短期間に詰め込むプログラムを受けました。これは、通常MBAスクールで2,3科目を週2,3日でやるものを月曜日から土曜日まで毎日4コマあるようなプログラムで非常に大変でした。

―慶応の経済学部に入学された経緯について教えてください。

慶応の経済学部が、祖父が大学として認めていた数少ない大学の内に入っていたからですね。
私の祖父が京都大学の卒業生で、大学と言えば京大しか認めないような人でした。もちろん東大も認めない(笑)。京大はもちろん受けたのですが落ちちゃったんです。慶応の経済学部は昔は理財科と呼ばれていたんですが、珍しく祖父が「慶応の理財科だったらいい」と認めてくれたんです(笑)。

―大学ではどのようなことをされていたんですか。

所属していたサークルもありましたが、実質的な活動はしていませんでした。友人が発行していた雑誌を手伝ったりはしました。他は大学のクラスや下宿の友人たちと飲んでいましたね(笑)。

―麻雀はされましたか。

大学1年のときはやりましたよ。日吉の確か1時間50円ぐらいの雀荘に行った記憶があります。

―成績はやはり良かったのでしょうか。

良くはなかったですよ(笑)。まあまあだったと思います。

―学生時代にやっておきたかったことはありますか。

自分なりには、やりたいことをやっていたと思うのですが、今考えるに、社会から見たら学生というのは、学生時代の自分が思っていた以上に法に触れなければ何をやっても許されると思います。学生のメリットを生かして、何かを考えて行動を起こしてみても良いのかもしれません。例えば、世の中のオピニオンリーダーに話を聞きに行く、ということもできると思います。社会人になってからは、そういうことは難しいと思います。どこにも所属していない、いわゆるニュートラルな立場である学生のメリットは十分に活用していくといいと思います。

■ 業界トップの企業は視点が違った

―IBMに決めた理由をお教えください。

正直IBMは第一希望ではなくて、第一希望は商社でした。商社はいくつか受けて通らなかったんです。他の業界では証券会社などからも内定をもらってはいました。最終的に決めた理由としては業界トップの会社ということがあります。今となっては考えられないとは思いますが当時はパソコンを持っている人が少ない時代でしたが、これからはコンピューターが時代の主流になるとは思っていました。また自分自身はコンピュータに苦手意識を持っていたんですよね。

大学では情報科学というコースを採っていたんですが面白くなくて落したほどです(笑)それで、これからコンピュータを知らなくては世の中を渡り合えないと思ったのも理由の一つです。

―IBMおよび商社とお聞きして海外志向が強い方のように感じたのですが、当時から海外に行きたいと考えていたのでしょうか。

元々海外には行きたいとは考えていました。大学3年生のときには40日間、アメリカ大陸をバスで貧乏旅行をしたこともありますし、未知なものへの好奇心というのは元々強かったですね。

―業界トップにこだわった理由についてお聞かせください。

就職活動のときにいろいろな企業の方の話を聞くことを通じて、業界トップ企業の視点は違うと感じたこと にあります。日本IBMに関しては日本での売上は富士通に負けていましたが、グローバルの視点で見ると圧倒的にトップでした。説明会や面接では世界のコンピュータ産業という視点から話されていました。1-22番手以降になるとトップにどうやって追いつくか、という話にどうしてもなりがちです。業界問わず何十社もの話を聞くに従い、そのような認識はある程度正しいと感じました。IBM以外に興味を持った会社というと、金融関係では証券会社、銀行。メーカーでは東レ、京セラなどと節操無く説明会に行きました。必ずしも就職したいと思って行ったわけではないですが、今のような就職の氷河期でもなく幅広く説明会に行き、面接でも自由に質問や発言をしていました。今考えると失礼なことも質問していたかも知れません。

―では、日本IBMで10年間、どのようなお仕事をされていたか教えてください。

最初の5年間と後半5年間、内容的には変わらないが性質の違う仕事でした。最初の5年間は関西で京都と大阪にいました。京都の事業所にSEとして入り、1年間は研修で、3年目はSEではなく営業推進を担当しました。京都事業所で新たに営業推進部門を作ったからやれと言われました。IBMは80年代前半まで大型コンピュータしかやっていなかったのですが、当時IBM マルチステーション5550という企業向けのコンピュータを発売していました。個人向けのPCではNECのPC98というのがメジャーな時代です。IBMはメインフレームから中小型に力を入れていこうとする真っ最中で、その流れもあって営業推進になったわけですが、半年後には、京都における中小企業向けのコンピュータを扱うIBMの代理店に出向することになりました。その代理店は設立の84年から私が行くまでずっと赤字を出していました。代理1-3店への出向自体はIBMもその1年前から始めていたんですが、出向者の多くは40代以上の役職も上の方で、どちらかというと片道切符みたいなものでした。私は27歳で「1年間という条件付きで出ろ。」と命令されて、ある意味その代理店のビジネスに対して全権委任の形で出向しました。資金繰りは担当しませんでしたが、営業活動の支援やSEの支援に加え、人事制度もいじったりいろいろやって、最終的に黒字にしました。次に大阪の関西営業本部に移りました。大阪・ 京都にいた時は、製造業、流通業、コンビニ、病院、卸売など、ほとんどの業種を担当しましたね。90年からは東京に転勤になりました。京都勤務も悪くなかったのですが、やはり大学時代の友達など友人の大半は東京におり、京都にいると会社関係の付き合いだけになってしまうので、元々希望を出していました。東京では都市銀行を担当し、SEを3年、最後の2年は営業をやりました。

■2年間「プ―太郎」やりながら考えた

―IBMを辞める転機について教えていただけますか。

これまた大した話があるわけではありません。当時IBMは業績が悪化していて、93年に会長がルイス・ガースナーになりアメリカの体制が大きく変わった年に、日本IBMにおいても早期退職プログラムを出していました。上司が社員一人一人と面談して、「今あなたが辞めればこれだけ通常の退職金に上乗せされます」という紙まで丁寧にありました。2年分の給与に加えて退職金がもらえたので相当額の提示がありました。私はその面談のときに「これぐらいもらえるけど、辞めないよね?」と口頭で言われました。辞めるつもりは全くなかったのですが、そのプログラムが終わってからいろいろ考えるにつけて「自分はこのままIBMに居続けるのだろうか。辞めるなら今このタイミングかな」と思ったんですね。翌年も退職プログラムが発表されたので、応募して辞めることにしました。当時の部長から当然引留められたのですが、それでも辞めますと答えました。「次何するか考えているのか」という問いに対しては、「いや、決まってないんで、2年分の給料もらっているので2年間プ―太郎やりながら考えたいと思います」と答えました(笑)。

―それは何歳ぐらいのことですか、33歳ぐらいですよね。

33歳ですね。今もそうだと思いますけれど、転職の募集要項を見ますと35歳というのが一つの年齢制限なんですよね。つまりあと2年ぐらいしかないということです。はじめから2年間と考えていなかったんですが、「プー太郎」を1年間やっている内に段々と面白くなってきて、もう1年遊んだという感じでした(笑)。

―2年間の海外旅行ではどの辺を回られましたか。

世界中色々回りました。ほんとにある意味で稚拙だと思われるかもしれないですけれど、例えばエジプトのピラミッドが見たいとかヴェトナムに行ってみたいとか、そういう単純な動機で世界を回りましたね。結局40カ国以上周りました。

―一番印象に残っていることは。

一番はないですね。それぞれの国や地域において感性を磨こうと考えていました。ともすると会社で10年も 働いていると澱と言いますか、何かが溜まっていくんですよね。でも、辞めた次の日に、スーッと体が軽くなるんですね。仕事をしていると、あれもやらなくちゃいけないこれもやらなくちゃいけない、これもまだできてないとか、いろいろ考えるわけですよ。そのようなことを考えていると知らず知らずのうちにストレスとして積もっていくのですが、それが全部なくなって体重が半分になったぐらいに軽くなった感じがしました。それが最初の印象ですね。

■物事に対する執着というのがなくなった

―2年間をそうやって過ごされた後、コンサルを選ばれていますが、世界を周っている内にコンサルに行こうと考えたのでしょうか。そう考えたきっかけがあるようでしたら教えてください。

1-4特にエピソードはないですね。34、5という年齢でしたので、当然何らかの仕事をしなくては生きていけないことは始めから分かっていました。自分はどんな仕事がしたいんだろう、どういうキャリアを作っていきたいのだろうと考えました。感性を磨くという言い方をしたんですが、要は今まで自分がこうだと思っているということを一度取り外すことで何が見えるのだろう、その上で将来どのような道に行くのだろうか、ということを真剣に考えました。

―どのような就職活動をしたのでしょうか。

ほとんどコンサル一本でした。いろいろ見ていく中で、何をするかといえば、大きく分けて会社を作るか就職するか、ですよね。会社を作るに関してはやりたいこともないし、やったとしても成功するとは思えなかったので始めから再就職を考えていました。今とは違って総合商社にしてもメーカーにしても、日系企業の中途採用の募集はあまりなかったのです。バブル崩壊後ということもありますし、日本のエスタブリッシュされた企業は基本的に純血主義でしたから。よって日系の大企業は考えていませんでした。元々IBMに勤めていたのでシステム関連でしたらやっていけるだろうし、経営コンサルタントならばIBMの10年間の経験を生かせる分野だと考えました。

―コンサルティングファームの中でもなぜA.T. カーニーを選ばれたのですか。

結論から申し上げますと、色々なコンサルティングファームを使っていたIBM時代のお客さんだった部長から、A.T. カーニーを強く薦められたことと、A.T. カーニーからオファーをもらったからです。他の戦略コンサルファームは書類審査で落とされました(笑)

―入社されてから金融プラクティスに所属された経緯についてお教えください。

入社するときに、当時の日本代表の安田隆二氏(※1)から「今までのキャリアからするとSITPというIT戦略などを練るグループか、IBMで5年間金融を担当していたこともあるから金融グループかな。どっちがいい?」と軽く聞かれて(笑)、同じITをやるよりも様々な分野にトライするのもいいなと考え金融グループを選びました。

※1 安田隆二氏

一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授。東京大学経済学部卒業後、カリフォルニア大学バークレー校で政治学博士(Ph.D)取得。モルガン銀行(ニューヨーク)、マッキンゼー・アンド・カンパニーのディレクターを経て、1995年よりスタンフォード大学客員研究員、1996年よりA.T. カーニーアジア総代表、2003年6月より現職。専門は企業戦略論、企業再生経営、M&Aおよびバイアウト、金融機関経営論。著者に『企業再生マネジメント』(東洋経済新報社)など。

―入社されてからパートナーになられるまでの経緯についてお教えください。パートナーになりたいという気持ちはあったのでしょうか。

一つには、いろいろ旅行をしていたこともあって、ある意味で言うと正直物事に対する執着というのがなくなって、入社してからもプロモーションしたいという考えはありませんでした。IBMにいた頃は、つまらないことではあるんですが、上司からよく見られたいという思いがあって仕事が終わっても遅くまでいたり、一生懸命全力で仕事をやっていたんですね。A.T. カーニーに入ってからは出世なんてどうでもいいと思っていますし、そもそもこういう外資系コンサルティング会社では、終身雇用が保障されているわけではないですしね。当初は3年も居られないだろうと思っていたので、この会社ではスキルを身につけようと考えていました。アソシエイトとして入りましたが、結構自分勝手に仕事をしていました。例えば、自分の担当箇所が終わったら先に帰っていましたから。今の若い者は夜遅くまで頑張りますが、私は結構早く6時か7時には帰っていましたね。1-5

-凄いですね。私事ですが昨年A.T. カーニーのジョブに参加した時は、そんなに早い時間に作業が終わったことはありませんでした。

こういう話をすると、「嘘でしょ」とかよく言われるんですけれど、昔から一緒にいる人間は「辻井さんは早かったですよね」と言いますよ(笑)。

取材:川島 碧