塾員インタビュー # 21 [09/12/23]

【超実力派若手政治家特集】第二弾!前衆議院議員 橋本岳氏

橋本岳氏は、1974年生まれ、岡山県出身、自由民主党所属。慶應義塾大学環境情報学部を経て、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程修了。SFC三田会代表幹事。三菱総合研究所入社、在籍中に静岡大学客員助教授なども勤める。2005年の郵政解散で比例当選。総務委員会、経済産業委員会、テロ・イラク特別委員会、沖縄北方特別委員会に所属、自民党難病議連事務局長などを歴任、2009年の総選挙では惜しくも落選。


インターネット研究のパイオニア

―はじめまして、慶應ジャーナルです。このたびはお忙しい中、どうもありがとうございました。

いえいえ、楽しみにしていますよ。

―ありがとうございます。さっそくですが、学生時代について少しお聞きしてよろしいでしょうか?

まずは、剣道部にいました。これは藤沢というより日吉ですね。あと、勉強はそれなりにやりました。SFCではいろんな研究プロジェクトに学生が参加する慣習がありまして、それにも結構携わっていました。例えば当時、「キャンパスライフ満足度調査」というプロジェクトがあってSFCが、僕が入学した時SFCは創設3年目と、まだ出来たばかりで学生が本当に満足したキャンパスライフを送れているのか、というのを調査していました。あと、もちろん、うちの奥さんに出会いましたね。

―ベビーカーを押して大学に通われていたという有名なお話がありますよ(笑)

そうそう。それは大学院のころなんですけど。4年で学部を卒業して、政策・メディア研究科の修士課程に行きました。学部時代は調査をする側だったんですけど、人がやってることを知るだけじゃなくて、大学院では自分が何かを主体的にしようと思いました。当時、東京都と藤沢市の共同プロジェクトで、「インターネットを使った政治の住民参加」の仕組みを作ろうというものがあり、そこに深く関わっていました。例えば、都市計画のマスタープランだとか総合計画を作るというときに、物理的に会って住民集会をやって、住民の皆様の意見を聞くなると、どうしても形式的になってしまう。95年に阪神大震災があって、ちょうどその後、一般の人がインターネットを使うようになった頃です。僕が大学院に入ったのが96年なので、インターネットを用いた政治参加プロジェクトをやったのは最初か2番目くらいでしたね。ですので、当時としては、トップグループに属していました。

―大学院を卒業してからは、研究者の道を歩まれていますが。

そうですね。大学院を出てからは三菱総合研究所というシンクタンクで働いていました。研究所ですが、アカデミックな研究というよりも、実用的なアドバイスやコンサルティングを担当していました。お客さんは役所が中心でした。

―教授もなされていたようですけど。

いや、客員教授でしたけどね。結局、選挙に立候補するまでMRI(三菱総合研究所)に勤めていたのですが、いろんな仕事をしていく中で、静岡県の研究会で知り合いが出来て、研究のアドバイスを頼まれてやらせていただきました。講義などを年に一回か二回した程度です。あんまり深いコミットはありませんでした。

政治家にはなってはいけないって思っていました

―いやいや、それだけでも素晴らしいです。ここでその後、出馬された経緯をお伺いしたいのですが。

話せば長くなるのですが、そもそも、生まれたときからお父さんは議員だったし、幼稚園のときには厚生大臣でしたから、政治家という職業が常に付いて歩いてくるわけですよ。でも、「絶対に俺はあとを継いで政治家になるんだ」なんて、全く思ってなかった。だって、僕の生まれてくる前から、世襲批判っていうのはあったわけですから。だから、うちの父親から「お前やれ」って言われたことは一度もなかったし、むしろ、「そうしてはいけない」と思っていました。だけれども、やっぱり憧れるわけですよ、父親が頑張っている姿を見ると。それで世論というものは不思議なもので、「世襲は悪だ」というのが当時からあったと思えば、地域の人からは「あんたが頑張るのよ」などと言っていただける。本当にあとを継ぐならば、大学を卒業し、父の秘書になって地元で顔を売っておいて、時期を見て替わるっていうのが、ストレートです。けど、それはやりたくなかった。国会議員になることだけを目標にするのは嫌だったんです。そして、父が政界を引退して郵政解散のときに、今度は母を立候補させる動きがありました。それはうちの選挙区では父親より歩いてますから顔は売れてますけど、もう60を過ぎたおばあさんを働かせるのは違うだろうと、「だったら俺がやる」ということで立候補したのがきっかけになります。

―ありがとございました。それでは議員時代の経験をお伺いしたいのですが、たくさんの議員連盟や委員会で精力的に活動されていたとの印象がありますが、実際どうですか?

RIMG0480 例えば、パーキンソン病だったり、結核であったり、医療費の話、あとはインターネットの勉強会を一年生議員で主催したり、何かについて「これはすべきだ」と思ったものは頑張ってやりました。また、委員会の質問はいきなり指名されたりするんですよ。「じゃあ、来週頼むよ」みたいに(笑)。「えっ!」って感じになりますよ。国会の日程っていうのは実は、その場その場で流動的に決まるんですよ。例えば、一回委員会をやってその終わりに次の日程を決めたり。その中で、自民党の一年生議員としては、きっちりやった方だと思います。それは日頃の勉強とか、質疑を通じて勉強したことが役立ってきました。

―やはり議員になってからの方が忙しくなりましたか?

ある意味、忙しくなりましたね。というのは、国会議員っていうのはお休みがないんですよ。平日は火・水・木は国会に出て、金曜日の午後にみんな自分たちの地元に帰っていく。で、地元にいったら、朝から晩まで個別訪問したり、街頭演説したり、お祭りに出たりします。それで土日を過ごして、月曜日の夜に上京してくるので、休みがないんですよ。休みがあるなら、帰ってきて一件でも個別訪問するので。もちろん、MRIの時も毎日零時まで働いていたりしたので、そういう意味では、その頃も決して楽ではありませんでした。けど、そういえば議員になる前は、休みっていうのがあったかなぁと(笑)

―大変ですね。一番力を入れている政策の分野についてお伺いしたいのですが。

まずはやはり、情報通信政策ですね。これは「ネットと街づくり」という課題からいろんな方面へ派生していきました。国会議員には年長の方が多いんで、たいてい「地デジ」とか「第三世代」とか分からないんですよ。だから、そういうのはよく担当しましたね。もう一分野、これは議員になってから取り組んでいることなんですけど、「医療」ですね。具体的には医療費とか病院をどうするかとか、医療事故があったときにRIMG0482どういった対応をするか、人が亡くなった後の扱い、この先孤独死はどう頑張っても増えてしまうので、その対処をしっかり行うことに取り組んできましたね。極端な話、人がナイフで刺されたり、銃で撃たれた跡があったら死因ははっきりしますが、傷一つ無いご遺体もあります。その人が、心臓麻痺で亡くなったのか、それとも誰かに薬で殺されたか、それは見ただけでは分かりません。そうした死因究明制度をちゃんと 整えていこうというのは、任期の終わりごろに良く取り組んでいました。

―素晴らしいお話をありがとうございます。しかし今回は逆風の中の選挙ということで残念な結果でしたが、それについてはどうお考えでしょうか?

まず、取り組んできた仕事を途中で投げ出さなければなくなったというのは、すごく残念です。あと、全力を尽くしてきたことに対して、評価をいただけなかったことは率直に残念です。それは、僕のPRが足りなかったということですが、どうしても活動は地道なものになってしまいます。だから、それをどう見ていただけるか、そのPRが足りなかったのは反省点です。逆に言えば、今はそういうことをやっていく期間を貰ったと考えています。自民党のせいとかではなくて、もちろん、言いたいことは自民党には言いますが、自分のせいで負けたことはすごく悔しいですね。

―今の鳩山政権に対してはどのような視点を持っていますか?

ある意味、僕は頑張って欲しいと思っています。僕は自民党の中にいて「自民党がこうしたらいいんじゃないか」と提案して、通らなかったことがたくさんある。それと同じように民主党さんが「自民党のここがおかしくて、自分たちはこうする」と言ったのが、支持されて政権が移ったと捉えています。結局、どんな革命にも血は流れるんですよ。今回は僕が流れた血の方になってしまいましたが、「俺ら犠牲になったんだからその分日本を良くしろよ」と思うわけですよ。「あんたらあれだけ、こうするって言ったんだから、やれよ」って。こっちはその結果こうして無職になったわけですから(笑)。まあ、それで出来なかったらいつでも政権交代するぞ!と思って見ています。

SFCに求められていると感じた

―そんな(笑)。ちょっとここでもう一度学生時代のことを伺いたいのですが、まだ出来て間もないSFCをどうして選ばれたのですか?

それは思っちゃったんです、「ここは俺を求めている」って(笑)。僕が高校2年生くらいで進路を決めようって思っているときに、進路指導の先生に「慶應でこういう新しいのが出来てるから受けてみない?」って言われて存在を初めて知りました。そのときは、卒業生もいないし「なにこれ!」って思ったんです。予備RIMG0481校に受験要綱とかパンフレットとかいっぱいあるじゃないですか、それで「諸科学横断型の知の再編成」とか「問題発見問題解決型」とかかっこいいことが書いてあるんですよ(笑)。それを読んで、「俺はここに行くんだ」ってワクワクして受験を決めましたね。あと、親も慶應なので喜ぶだろうなっていうのはありました。でも、それまでは地方の国立大とかに行くんだろうなって漠然と思ってたんで、慶應は全然考えなか ったですね。

―お父様も慶應ということで、やはり慶應に思い入れはありますか?

それはもちろんありますね。大学院も合わせて6年間通いましたし。

―尊敬する人物は誰でしょうか?

橋本龍太郎です。やっぱり、かっこいい父親でしたよ。昔から政策通で、当時、どちらかと言えば政策を語るタイプの国会議員は稀だったので。だから、憧れでしたね。うちに帰ったら普通の人でしたけどね(笑)。でも、日頃から仕事に真面目に取り組む人だなっていうのは、よく感じました。

―総理になられたときは、どう思いましたか?

そのときはもう大学生だったので、「ああ、総理になっちゃったんだ」ってくらいでしたね(笑)。けど現実的にはそのころ4月に結婚を控えてまして、1月に村山総理が辞任して、父が総理になることが決定したので、「えっ!俺たちの結婚どうなるの?」って感じでした。結局はちゃんと結納にも来てくれましたけど。

―先ほど話に出た奥様とは慶應の中で知り合われたのですか?

もちろん。学部は奥さんが総合政策学部で、僕が環境情報学部でした。同じキャンパス内ですね。

―やはりSFCに入って良かったと思いますか?

もちろん。いろんなものを得ましたから。僕の原点ですね。

―政治家以外になりたかったものはありますか?

オーケストラの指揮者。これは子供の夢レベルですけど(笑)。音楽は今でも好きですね。

―剣道三段とのことですが、今でもまだやられていますか?

続けたいと思っていますが、なかなか出来ないですね。辞めたとは思っていません。剣道をやっていると、習慣になってくることがありますね。剣道には「残心」という言葉があります。剣道は斬って喜んで終わりじゃなくて、そのあとに構えて終わるまでが大切なんです。だから、どんなに綺麗に面を打っても、「残心」がなければ取り消されるんですよ、実際に。こういうことは、「どんな成功でもちゃんと終わりまで、ただ喜ぶのではなくて最後まで見届けないとダメだよ」っていう普遍的な教訓です。

―これからの政治家としてのビジョンをお伺いしたいのですけど。

まず当選すること(笑)。でも、日本が抱える問題っていうのは政権がどうなろうと変わらないんですよ。逆三角形の人口構造も国債残高も環境問題もまだまだ問題は山積みなので、僕もそこに加われればいいなと思っています。これはただ政治家だけが頑張ればいいというものではないので。

―最後に慶應生へのメッセージをお願いします。

よく遊びよく学べ。やっぱり、慶應生はノリがいいですね。「それ面白いじゃん、じゃあやろやろ」みたいなノリは凄く大事。これからの社会を動かしていって欲しいですね。

―お忙しい中、本当にありがとうございました。

取材:勝部一志